Scarlet Butterfly



 爽やかな日差しが心地よい夏の日。
 オレは一人でドライブに来ていた。
 開け放した窓からは、風が入り、樹の香りを運ぶ。
 窓を流れていく景色も、美しいものだった。
 山奥だからか、道路のすぐ側には生い茂る木々。
 都会のガスに汚染されていない、新鮮な空気。
 どれをとっても、ドライブには最適で清々しいだろう。
 オレは運転をしながら、樹の香りを吹き消すように、タバコの煙を吹き付けた。
 風景は清々しくとも、オレの気持ちは塞ぎこんでいた。
 
 原因は、オレの彼女。
 アイツのせいで、オレはこんな気分になっている。
 オレの他に男がいたんだ。
 それもちょっとやそっとの付き合いじゃなく、もう何年もだったらしい。それに気づけなかったオレも情けないのだけれど。
 ありきたりなパターンでも自分が体験すると予想以上にショックだった。
 今日のドライブも、本来は彼女とくるはずだった。
 しかし、そんな気まずい状態で泊まりなんて行けるはずがない。
 それでもせっかく取った宿の予約を取り消すのはもったいないので、オレ一人でこうしてドライブをしている次第だ。
 だけどオレの気持ちが塞ぎこんでいるのは彼女だけが理由ではなかった。さっきから結構な時間車を走らせているのだが、一向に目的の宿が見当たらないのだ。もちろん事前に道を調べて、地図もしっかりと持ってきた。
 ガソリンも満タンにしておいたからなんら問題はない……そこで、はたとオレは思い出した。
 そういえば、代えのタイヤを切らしていたような……
 軽く舌打ちをしたものの、気にしないことにした。いざとなったら、車から降りて歩けばいいだけのことなのだから。
 宿には、地図の場所から少し歩いた場所だとは聞いたのだが……こんなにも人がいないものなのだろうか。登り始めた最初は何台かの車とすれ違ったりはしたものの、今はめっきり見かけない。バス停もあるにはあるが、不思議なくらい 人気がない。山奥とはこういうものなのだろうか? 頭の中には色々と疑問が浮かんだが、同じ景色ばかりみていると 人間不安に思ってしまうもの。
 きりがないので、運転だけに集中することにした。
 夏の日差しが少しだけ傾き始めていた。

 その後もしばらく車を走らせていると、不意に嫌な予感がした。
 何が、というわけではないが、なんとなく嫌な感じがしたのだ。
 根拠なんてない……例えるならカンのようなものだった。
 いったん端に寄せてから、オレは車を降りた。
 ボンネットを開けて、最初にエンジンの確認をした。異常がないことを確認してから、タイヤを確認してみると、パンクしていた。
 尖った何かを踏んだのかどうかは分からないが、右の前輪がパンクしていた。結果的には嫌なカンが当たってしまったことになる。
 深くため息をついてから、オレは車体に寄りかかった。
 これからどうするべきか……
 歩いて戻るという選択肢もあるが、非常にめんどうだ。
 かといってこの場にいてもどうしようもならない。
 宿泊予定の宿に電話をしようと試みたものの、最悪なことに電波がなかった。無論付近に公衆電話など見当たらない。
 どうしよう、と考えつつも、ほぼ答えはでてしまっていた。
 戻るのではなく宿に向かって歩くことにした。かなり時間が掛かってしまいそうだが、仕方がないだろう。幸い、地図があっていれば、今いる場所からは遠くはないはずだった。
 何をすればいいのかはわかっていても、中々動き出す気にはならなかった。いつのまにか夕方になっていたが、足は重かった。
 慣れていない場所というのもあるのだろうが。吸っている煙草だけがどんどんと短くなっていった。
 煙を吐き出しながらぼうっとしていると、不意に視界を何かが横切った。
 黒の模様と、見慣れぬ緋色がはためいた。
 ふわふわと舞うそれは一匹の蝶だった。
 羽の色は珍しいもので、赤ではなく緋色だった。夕日の色が当たっているのかとも思ったのだが、近づいてみるとそうではないことが分かった。光の反射具合によって、時折赤色にも見えた。
 キレイだな……と思いつつも、何故こんなところにいるのだろうと思った。夏場は蝶は多く見かけるが、山の中でもそうなのだろうか。山はどちらかというと蝉やカブトムシなどが多そうな気がした。
 しかし、目の前にいるのだから、蝶もいるのだろう。
 逃げずに目の前を飛んでいる蝶を眺めていると、少しだけ癒された気がした。じーっと見ていると、ふいに蝶がふわふわと移動を始めた。何処へいくのかと視線で追うと、道路の脇にある森へと飛んでいってしまった。そのゆったりとし た動きを目で追う内に、自然とオレはその蝶の後を追っていた。
 何故か追いかけてみたいと思っていた。珍しい色をしていたからなのか、ただ単に疲れていたからなのかはわからないけれど。
 もっと、あの蝶を見たいといつのまにか思っていた。
 オレは蝶を追って森の中へと歩いていった。 

 森の中は薄暗く、冷たかった。茂る樹木で日差しが遮られているからだろうか。時折吹く冷たい風が疲れた体には心地よく感じた。
 枝を踏みしめゆっくりと進むオレの前にすぅと蝶がまた現れた。
 先ほどのと同じ種類のようだった。この辺に生息しているのだろうか。舞う蝶を眺めながらオレは歩いていく。
 鳥や虫の鳴き声ひとつしない静かな森だった。
 ふわふわと舞う蝶を見て可憐だと思った。
 昆虫を見てそんな言い方をするのは可笑しいのかもしれないが、鮮やかな緋色は綺麗に値するとおもった。
 歩きながらもその色に視線が吸い寄せられる。
 今までに見たことのない不思議な蝶だった。
 歩くうちに、夕日は月明かりへと変わっていた。 

 あてもなく歩いていると、少し開けた場所へと辿り着いた。
 そして目の前に広がる光景を見てオレは息を呑んだ
 先ほどまで見ていた蝶の群れがいたのだ。
 群れを作るのかどうかは知らないが、十や二十匹以上の数が見える。
 そのどれもが鮮やかな緋色の羽をはためかせて飛んでいた。
 羽が動くたびに、細かな燐粉が零れ落ちるようだった。
 先ほどとは別の意味でため息しかでなかった。
 月明かりの中で舞い踊る蝶達。今までにみたどんな光景よりも美しく見えた。
 圧倒されて、くらくらと眩暈さえしてき た。
 ふらふらと蝶の群れの中へと歩いていくと、蝶は周りへと逃げていった。その事に少しがっかりしながらも、また歩こうとした時だった。足元に、何か硬い感触があった。
 何事かと思ってみると、倒れた樹のようなものだった。妙に形が複雑なもので、中は空洞になっていた。表皮の下には、薄茶色の筋のようなものが見えた。よく見るとうっすらと赤みがかっていた。
 樹の側には色褪せた布のようなものがいくつもあった。
 変な枯れ木だと思いながら、少し観察してみることにした。
 腰をかがめて、それへと体を近づけた。
 倒れた樹にしては、形が長く、しっかりとしていた。所々ぼこぼことしているものの、切り倒されたような後はなかった。根っこは何処だろうと探してみると、樹の一番下ではなかった。樹の途中から地面に刺さっているような形だった。 空洞もよく見ると、中に何かが見えた。腐食していてよくはわからなかったのだけれど。
 どうやら、樹が倒れたものではなく、ここにあった何かから樹が生えたようだと思った。
 恐らくあの蝶達はここを住処にしてるんだろうな……と思い、オレは立ち上がった。
 すると、至近距離に先ほどの蝶がいた。
 手を差し出してみると、一匹が指先へととまった。そのまま羽を閉じて休んでいた。微笑ましく思えて口元が綻んだ。
 この距離だと蝶の姿がよく見えてよかった。
 つぶらな黒い瞳に、ふさふさとした柔らかそうな触角。触ったら気持ちよさそうだと思った。
 そんなことを考えていると、ちくりと指先に刺激が走った。
 あまりにも小さい刺激は痛いというよりも、むず痒かった。
 何が刺したのだろうと思いつつ、とまる蝶を見る。
 蝶は、花の蜜などを吸う。間違っても肉食ではない。
 だから刺さないよな、とも思いつつ蝶を凝視していると、さっきとは違う点に気が付いた。
 先ほどよりも、羽の色が濃くなっていた。緋色よりも、赤に近づいていた。
 じわじわと嫌な予感が押し寄せてきて、手を振ったものの、蝶は逃げなかった。その間にも、羽の色が強くなっていく。
 慌てているオレをあざ笑うかのように、気が付くと体中に蝶がとまっていた。あちこちから、微かに刺激を感じた。
 とにかく車に戻ろうとしたが、何かに躓いて転んでしまった。
 それはさっきの枯れ木だった。忌々しく思って舌打ちをした。
 起き上がろうとして、大量の蝶を見てひるんでしまった。とまる蝶を見ていると、どれも鮮やかさを増していた。ここにきてオレはやっと気づいた。この蝶の羽の色は、人の血から出来ているのだと。
 変種や亜種なのかはわからないが、この蝶達は人の血を吸うのだろう。鮮やか過ぎる色に再び眩暈がしてきて、自分の手を見つめた。
 特に外傷もない。ただ、少しだけ冷たくなったような気がするだけで。何だか慌てるのも馬鹿馬鹿しくなって一人笑った。
 そして、さっきの枯れ木のことに気が付いた。
 あれも、もしかしてオレのように血を吸われた誰かの成れの果てではないのだろうか。人の死体からでも、樹は育つのかわからないが。
 時間が経つと、ただ思考がぼんやりとしてきた。
 怖くもないし、痛みもない。視界に入るのは美しい蝶だけ。
 むしろ心地よい気さえして、眠気すら覚えた。
 無事に帰れるのかとも思ったが、どうでもいいような気がした。
 普通に生きて、くだらぬ人生を送るよりも。
 ここで、美しいもの達の糧となる方が幸せな気がしてきた。
 くだらないことに煩わされずにいられるだろう。
 そう、オレが蝶になると考えればいいんだ。
 この蝶達と同じものになる。
 ふふ、と小さな笑いが零れた。とても素晴らしいことじゃないか?
 次第に頭の中に闇が広がっていく。抗うこともせずに身を任せてみた。
 そして、オレの意識は闇へと溶けていった――



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